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- かずさや・日本橋の歴史
江戸の成り立ち
1590年:豊臣秀吉からの国替えの命により徳川家康が江戸に入府。
1598年:豊臣秀吉が死去。
1600年:徳川軍が関ヶ原の戦いで西軍に勝利。
1603年:徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開府。
各地の大名に江戸の市街地普請(ふしん:建物や道路などの工事)を
命じ、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て、江戸の町が急速に
拡大。五街道と宿駅伝馬制度を整備。
1612年:江戸町割が実施。日本橋本町通り一帯から整備。
1615年:大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。
1635年:参勤交代制度が「武家諸法度」に規定されて、
新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設される。
時の鐘通り
①時の鐘 / 夜半亭
与謝蕪村(よさ ぶそん)
呉春画「与謝蕪村像」
京都国立博物館所蔵
日本橋本石町(現在の住所は日本橋本町)の「時の鐘」は、江戸時代に鐘の音で時間を知らせるために設置された江戸初の鐘撞堂(かねつきどう)です。この鐘撞堂辺りには、俳人・早野巴人(はやの はじん)の住まい「夜半亭」があり、与謝蕪村は、夜半亭の巴人のもとで俳諧(はいかい)を学びました。
●蕪村の句 「尼寺や 十夜に 届く 鬢葛(びんかづら)」
※時の鐘は、現在伝馬町牢屋敷跡の十思公園に移設してあります。
②長崎屋(ながさきや)
日本橋長崎屋の阿蘭陀人図
葛飾北斎画「画本東都遊3巻」
国立国会図書館デジタルコレクション
長崎屋は、江戸幕府御用達の薬種問屋で、オランダの商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿にもなっていました。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つとして、幕末には参府したシーボルトを訪ね平賀源内(ひらが げんない)や杉田玄白(すぎた げんぱく)など日本の蘭学者・医師などが訪問したと云われています。
③小山屋(おやまや)
大石内蔵助(おおいし くらのすけ)
「曽我忠臣蔵錦絵并番附集」
国立国会図書館デジタルコレクション
小山屋は、現在の時の鐘通りにある老舗天ぷら店「てん茂」付近にあったとされる旅籠です。ここには、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で有名な元赤穂藩国家老大石内蔵助の長男、主税(ちから)一 行が滞在し 、大石内蔵助は1703(元禄15)年11月5日にこの旅籠で一行と合流し、その40日後に本所松坂町にあった吉良上野介(きら こうずのすけ)邸討入りに向かったと云われています。
④伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)
吉田松陰(よしだ しょういん)
徳富猪一郎著「吉田松陰」民友社
国立国会図書館デジタルコレクション
伝馬町牢屋敷は、囚人を収容する牢獄で、1859(安政6)年には長州(山口県)藩士の吉田松陰が安政の大獄で収監され処刑された牢獄でもあります。松陰は、自身が主宰する「松下村塾(しょうかそんじゅく)」で高杉晋作(たかすぎ しんさく)や伊藤博文(いとう ひろぶみ・初代 内閣総理大臣)など、明治維新で活躍した志士に大きな影響を与え、塾生の木戸孝允(きど たかよし)らは、のちに坂本龍馬の仲介で薩長同盟を果たしました。
●吉田松陰 辞世の句(死を前にこの世に遺した短文)「身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 ※句碑は十思公園にあります
日本橋 近郊の名所
蔦屋重三郎
蔦屋重三郎は、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの浮世絵を世に送り出し有名にした江戸屈指の版元で、「耕書堂(こうしょどう)」の名で店を構えていました。「耕書堂」は、現在の日本橋大伝馬本町通りにあり、説明板が建てられています
蔦谷重三郎
浮世絵保存刊行会 著[浮世絵]/国立国会図書館デジタルコレクション
江戸三大道場
江戸三大道場は、幕末期の江戸で高い人気を誇った千葉周作(ちば しゅうさく)の北辰一刀流「玄武館(げんぶかん)」、斎藤弥九郎(さいとう やくろう)の神道無念流「練兵館(れんぺいかん)」、桃井春蔵(もものい しゅんぞう)の鏡新明智流「士学館(しがくかん)」の三大剣術道場で、「技は千葉、力は斎藤、位は桃井」と称され、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人物が、これらの道場で剣術を学びました。なお、坂本龍馬は主に千葉周作の弟・定吉の桶町道場で修業していたようです。
土佐藩中屋敷
幕末の志士として有名な坂本龍馬(さかもと りょうま)や武市半平太(たけち はんぺいた)、岡田以蔵(おかだ いぞう)など土佐(高知県)藩士は、土佐藩中屋敷(現:中央区役所辺り)に寄宿して剣術修行に励みました。坂本龍馬が「北辰一刀流皆伝・目録」を伝授された玄武館は、現在の岩本町駅近くの一八通りにあり、「玄武館・瑤池塾(ようちじゅく)跡 」の説明版が建てられています。
坂本龍馬/高知県立民俗歴史資料館所蔵
かずさやの沿革
一八六三年 | (文久三年) | 十二月二十日、初代 工藤由郎、誕生。 |
---|---|---|
一八八九年 | (明治二十二年) | 九月十五日、二代工藤誠一、誕生。 |
一八九一年 | (明治二十四年) | 初代工藤由郎、日本橋の上総屋旅館を買収し創業する。 |
一九〇二年 | (明治三十五年) | 火災のため全焼、直ちに再建し営業をつづける。 |
一九一八年 | (大正七年) | 十月十一日、三代 工藤誠太郎、誕生。 |
一九二三年 | (大正十二年) | 九月関東大震災により旅館を全焼する。 |
一九二四年 | (大正十三年) | 家屋の再建が完了し、営業を再開する |
一九三七年 | (昭和十二年) | 工藤誠一、二代目社長に就任する。 |
一九三九年 | (昭和十四年) | 初代 工藤由郎逝去。(享年七十六歳) |
一九四三年 | (昭和十八年) |
戦争激化のため一時休業。 建物は三井鉱山へ社員寮として貸し出す。 |
一九四六年 | (昭和二十一年) | 四月、営業再開。 |
一九四八年 | (昭和二十三年) | 三月、除隊後復職していた工藤誠太郎は勤めを辞めて、上総屋の経営に携わる。 |
一九四九年 | (昭和二十四年) | 三月、株式会社上総屋旅館に組織を変更し、工藤誠太郎が代表取締役社長に就任。 |
一九五三年 | (昭和二十八年) |
国鉄推薦旅館(後の日本観光旅館連盟)に加盟。 八月九日、四代 工藤哲夫、誕生。 |
一九五四年 | (昭和二十九年) | 日本交通公社(現JTB)と送客契約を締結。 |
一九五五年 | (昭和三十年) | 五月一日、工藤誠太郎、日本橋組合長に就任。 |
一九五七年 | (昭和三十二年) | 十二月十六日、工藤誠太郎、東京都旅館環境衛生同業組合設立に伴い、副理事長就任。 |
一九六〇年 | (昭和三十五年) | 二代 工藤誠一逝去。(享年七十一歳) |
一九七九年 | (昭和五十四年) | 上総屋旅館の旧施設解体及び新築工事開始。 |
一九八〇年 | (昭和五十五年) | 新館完成 ホテルかずさやオープン。 |
一九八八年 | (昭和六十三年) | 五月、工藤誠太郎は東京都ホテル旅館環境衛生同業組合理事長に就任。 |
一九八九年 | (平成元年) |
五月、工藤誠太郎は全国旅館組合連合会・副会長に就任。 八月、工藤哲夫は勤めを辞め、かずさやの常務取締役として経営に携わる. 十月、ホテルのCI実施、併せてニレーヌへ改名。 |
一九九〇年 | (平成二年) | 十一月、工藤誠太郎勲五等瑞宝章叙勲。 |
一九九一年 | (平成三年) | 九月、上総屋創業百周年。 |
一九九三年 | (平成五年) | 八月、工藤哲夫、四代目社長に就任する。 |
二〇一五年 | (平成二十七年) | 四月、三代 工藤誠太郎逝去。(享年九十六歳) |
二〇一八年 | (平成三十年) | 六月、かずさやは営業を休止し、旧施設の解体、新築工事の開始。 |
二〇二〇年 | (令和二年) |
六月、新ホテルの竣工。 上総屋創業百三十年。 七月、新ホテルかずさやオープン。 |
歴代経営者
初代
工藤 由郎
(文久三年二月二十日生まれ)
二代
工藤 誠一
(明治二十二年九月十五日生まれ)
三代
工藤 誠太郎
(大正七年十月十一日生まれ)
四代
工藤 哲夫
(昭和二十八年八月九日生まれ)
会社概要
社名 | ホテルかずさや |
---|---|
所在地 | 〒103-0023 東京都中央区 日本橋本町4-7-15 |
創業 | 明治二十四年(1891年) |
代表者 | 代表取締役 工藤哲夫 |
資本金 | 1,000万円 |
事業内容 | ホテル・飲食業 |
ACCESS
ホテルから「各駅」
- 新日本橋駅(JR)6番出口より徒歩1分
- 神田駅(JR)東口より徒歩5分
- 三越前駅(東京メトロ)A10番出口より徒歩5分
- 小伝馬町駅(東京メトロ)4番出口より徒歩5分
- 東京駅(JR)タクシー 5分
- 秋葉原駅(JR)タクシー6分
その他アクセス
- 羽田空港(JR・モノレール)約30分
- お車で来館の場合
首都高速本町ICから約4分
ホテルから「主要おでかけスポット」
- コレド室町徒歩5分
- 日本橋三越本店徒歩9分
- 東京・日本橋徒歩10分