ホテルかずさやの歴史 HOTEL KAZUSAYA'S HISTORY

かずさやの歩み

弊社は、平成28(2016)年に創業125周年を迎えることが出来ました。
また、過去の平成13年(2001)の創業110周年、平成18年(2006)の創業115周年の際、各周年毎に記念誌を発行して来ました。
弊社の歴史を調べてみると必然的に町の歴史を掘り下げることになります。そして、今まで知らなかった街の歴史に多々出会うことが出来ました。 特に、かずさやの前の道は、歴史の舞台になったことも多々あったようです。

年表

初代工藤由郎は、文久3年(1863年)ペリーの浦賀来航から10年後に信州の丸子、現在の長野県上田市丸子町で生まれ、明治15年頃より蚕種の商売に力を入れたようです。
蚕種とは、明治時代の有力な輸出商品であった養蚕の蚕の卵を植え付けた紙を販売するもので、その台紙となる紙の販売は政府の統制下にあり、深谷、福島、上田の三か所が指定されていました。 上田の近くの丸子にいた関係で蚕種を養蚕農家に売り渡り富を蓄えながら、東京に進出して商売を行いたいと考えるようになりました。
蚕種(さんしゅ)とは蚕の卵のことをいう。蚕蛾に産卵させた紙を蚕種紙(蚕紙)といい蚕種製造業者によって製造された。
養蚕農家は蚕種紙を購入、孵化させて蚕を飼育し繭を生産した。
蚕種製造業者は蚕の品種改良を重ね、飼育が容易で高品質かつ大糸量を得られる繭を作る蚕品種を開発し、また飼育法を指導し養蚕農家を支えた。
蚕種製造業には多くの資本投下と知識集約が必要であったため、豪農、名望家層から転じて専業化していったものが多かった。

はじめ明治20年に、上京して旅館を買収するべく、探し求めたようですが、適当な物件が無く、再度明治24年に上京し、日本橋本石町にあった上総屋旅館を譲り受けることになりました。
この時、由郎は28歳でしたので、今から考えますと随分若くして自分の掲げた夢を実現したものだと思います。

また後にも述べますが、由郎は生涯、2回の火災にあった為、旅館を誰から、どのようにして、譲り受けたからなど、詳しい経緯は分かっておりません。
しかし、本人は信州の出身でありましたので、屋号に「信州」とか「信濃」という名称を使いたかったと思います。しかし、旅館の集積地でもあった日本橋には、 既にそのような名称の宿が存在し、致し方なく「上総屋」という屋号を引き継いだようです。
ご承知の通り、上総とは現在の千葉県中部にあたる旧国名の一つで、そこの出身の方が始めたものと思われます。余談ですが、両国橋は、武蔵と下総の国に掛かっていたので両国橋と名付けられました。 その下総の南隣が上総になります。
戻りますが、由郎は、明治35年(1902年)と大正12年(1923年)の関東大震災の2回に渡り火災に合い宿を全焼しましたが、都度再建を行い、大変な苦労しました。

かずさや 現存する最古の写真と思われます。明治32年とありますので、最初の火災に合う前の写真で、明治24年に譲り受けた当初の建物と思われます。玄関横には、人力車が止まっております。
かずさや 年代がはっきり特定できませんが、戦前のものと思われます。小生が生まれた昭和28年頃に似ておりますが、玄関や外観部分が違っておりますので、戦前のものかと推察致します。

二代目工藤誠一は、昭和12年(1937年)に社長に就任しましたが、大東亜戦争が激化してきた昭和18年(1943年)に旅館を一時休業し、建物は三井鉱山へ社員寮として貸し出したそうです。
東京大空襲などで壊滅的な被害を受けた日本橋地域でしたが、奇跡的に戦火を免れ、昭和21年(1946年)4月には営業を再開しました。
兵役に従事していた三代目・工藤誠太郎は、終戦後無事帰還し、昭和23年4月より事業を継承しました。戦後の復興期を迎え新しい社会の枠組みも整いつつある中、 昭和24年3月商法改正により「株式会社上総屋旅館」に組織を変更し代表取締役社長に就任、同年5月には東京都旅館組合連合会の理事となりました。
さらに、昭和28年には現在の日本観光旅館連盟の前身・日本国鉄推薦旅館に加盟、昭和29年には日本交通公社と旅館送客券契約を締結するなど、新しい都市旅館としての基盤を整備、 事業展開致しました。昭和32年10月には「環境衛生関係事業の運営の適正化に関する法律」、通称「環衛法」の成立により、東京都ホテル旅館・環境衛生同業組合の副理事長に推され、 以後平成2年、組合理事長を辞めるまで組合の要職を務め業界の発展にも寄与致しました。

一方、上総屋は日本経済が高度成長期を迎え、また日本人の生活環境も著しく変わる中、次代を担うホテルに生まれ変わる為に、昭和54年7月旅館業を一時廃業して、 建設工事に入りました。昭和55年8月鉄筋・鉄骨7階建ての建物が完成し、9月より「ホテルかずさや」として営業を開始しました。
新生のホテルかずさやは、ホテルとしての利便性、機能性を満たすことは勿論のこと、とかく無味乾燥になりやすい事務的な雰囲気を排し、旅館としての伝統である、和やかさと暖かい心配りをモットーに、 あくまでもお客様本位に徹することを目指し営業を行っております。
特に、最近の10年間はリニューアル工事を毎年行い、客室の改装・設備の更新を進めて参りました。


歴代経営者

上総屋の歴史を刻んだ先代経営者であります。右側の初代から、順番に2代、3代、そして4代目の私に至ります。


日本橋町名変更の話

明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡が置かれ、中央区の前身にあたる日本橋区と京橋区が設置されました。明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、 同年5月1日、東京市が成立し、日本橋区、京橋区は東京市の区となりました。
日本橋区と京橋区は、大正12年(1923年)の関東大震災で区内の9割以上が焼け野原となる大被害を受けました。そして震災復興後の区画整理に伴い、昭和3年(1928年)から 昭和10年(1935年)にかけて、両区の大部分の地域で町名の統合整理が実施されました。
昭和3年・1928年から昭和10年・1935年にかけての町名整理により、近世以来の旧町名の多くが廃止され、また存続した町についても、町界は大幅に変更されました。 一例として日本橋区の本町一 ~四丁目及び本石町一 ~四丁目は、元来は江戸城に近い側を一丁目として、西から東へ一・二・三・四丁目の順に並んでいましたが、 町名整理後の新しい町域は、日本橋の橋の南から北へ一・二・三・四丁目の順に並んでいます。この例では、「本町」「本石町」の町名は残りましたが、町名整理前と後とでは、 同じ町名であってもその範囲が異なってしまいました。
その後、昭和22年(1947年)3月15日、当時の東京都日本橋区と京橋区が合併して中央区が成立しました。
ここでポイントは、上総屋の所在地名も、本石町から本町に変わったということです。

江戸の歴史

ここで、少し目先を変えて、町の成り立ちを掘り下げるべく、江戸の歴史を振り返って見たいと思います。
豊臣秀吉が小田原の北条を攻略し天下統一した後、徳川家康に関東への国替えを命じました。そして関八州:武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野を与えた替りに、 旧領地五か国:駿河、遠江、三河、甲斐、信濃を召し上げました。
1590年(天正18年)8月、家康は江戸城に入城しましたが、その当時の江戸は、荒れ果てたもので、城と云っても石垣等は無く(芝土居:芝の土手),城内の建物も板葺きの田舎家でした。
家康は、江戸の町づくりに際して、中国を習い陰陽(おんみょう)学から「四神相応(しじんそうおう)の地形」すなわち、東に青龍の神が宿る川、南に朱雀の神が宿る海、西に白虎の神が宿る道 、北に玄武の神が宿る山を参考に街づくりを行ったといわれています。
神田山を切り崩して、日比谷入江を埋め立て江戸の町を作った話は有名です。
家康は、1604年(慶長9年)江戸の中心街である本町と交わる通町に日本橋を改めて設け、ここを起点に五街道を整備し、古くからある京都からの交通網を脇街道として組み入れ全国の城下町を結びました。
併せて、旅人や荷物の運搬の利便を考え、宿駅(しゅくえき:宿場)を設けました。
東海道に、53の宿場が設けられたのは有名です。
宿駅には傳馬制度が整えられ、江戸で傳馬の役目を果たしたのが、大伝馬町、小伝馬町でした。
宿駅には「宿継ぎ(やどつぎ)」と呼ばれた荷物運びがいて運搬の仕事をしていました。
日本橋の馬喰町も馬の売買などや馬に関係する仕事から発した町名であります。
更に、1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、関東郡代が浅草橋付近に建てられたことから、大伝馬町~馬喰町辺りに郡代を訪れる人々の為の、公事宿と呼ばれた旅館が百軒ほど立ち並んだそうです。
通旅籠町などの町名も見られるのはその名残です。 尚、郡代とは税の徴収等を管理したり、地域の訴訟を裁きする代官のことを指します。

かずさやの位置する日本橋・本石町「時の鐘通り」


江戸一番の繁華街は、本町通りでした。
【本町通り】:現在の三井タワー・千疋屋さんの横から昭和通りの小津和紙さん、べったら市の中心である江戸屋さんへ抜ける通りで、そのまま墨田川沿いの両国広小路へと続いていました。
【本石町通り】:現在の江戸通りは、旧町名で云えば「本石町通り」です。明治になり市電が走るようになり、市電の走らなかった本町通りより本石町通り・江戸通りが主要通りとなったようです。
【本銀(ほんしろがね)町通り】:昨年、中央区より通りの命名をして頂きました、今川橋にあるカメラのキタムラさんの横の通りが「本銀町(ほんしろかね)通り」です。
【本石町新道】:「かずさや」があります目の前の道は、江戸時代は「石町新道」とか「鐘撞新道」と呼ばれていましたが、平成14年に中央区より「時の鐘通り」と命名して頂きました。
実は変哲の無いビルに囲まれた小さな裏通りでありますが、弊社の歴史を掘り下げて分かったことですが、すごい歴史が詰まった通りであることが判明しました。
皆さんのよく知っている歴史上の人物も、大勢この通りを行き来したことでしょう。

それでは、詳しく紹介して参りましょう。


上記は江戸一の繁華街と言われた本町通り、そしてその通りが墨田川に突き当たった所が両国広小路です。その賑やかさを表した絵であります。
本町通りと両国広小路は、今でいえば「原宿・竹下通り」とでも言えるでしょうか。
両国広小路には、見世物小屋や屋台が沢山出て、大勢の人が押し寄せたそうです。


同じく上記、本町通りの繁栄を表した絵です。本町通りには、時の大店が競って店を出し大いに繁盛したそうです。


ここから、かずさやの前の道、鐘撞新道に入ります。
先ほどの、明治32年の写真を元に、当時の鐘撞新道(現:時の鐘通り)を再現して見た想像図です。
右側に上総屋旅館、その先に時の鐘のやぐらが見えます。突き当りには、江戸城、そして奥には、定番の富士山となっております。
尚、125周年の記念の際には、この柄の手ぬぐいを作成しました。


上記は現在の時の鐘通りです。中央通りから昭和通り方面を望んでおります。
左側の写真、中央通りから一歩入った、道路上に「時の鐘通り」の銘板が埋め込まれています。
更に通りを進むと、右側にてんぷらの天茂さんがあります。この左側、天茂さんの玄関の反対側に「時の鐘」のやぐらがあったと云われております。
ここを更に、50m進むと左側に「かずさや」にあります。
ご存知の通り、江戸は何回も何回も、火災で町が焼き尽くされましたので、町の形も、場所も少しづつ変わっています。
右2枚の写真は時の鐘の銘板と「石町の鐘」の歴史碑文。通りの入り口左側に設置されています。

本来、鐘撞新道は、今の中央通りからせいぜい昭和通りまでの名称と思われますが、鐘は現在、さらに東側にある旧十思小学校の公園に保存されています。 平成14年に、この道が「時の鐘通り」と命名された時は、中央通りから十思公園さきの人形町通りまでとされました。
ご存知の様に、十思小学校は、小伝馬町の牢屋敷跡に建てられました。

現在の時の鐘と松陰先生終焉の地

時の鐘は、時計が珍しかった江戸時代、庶民に時を知らせる大事な鐘でありました。
当初は、江戸城内にありましたが、将軍秀忠の時代に江戸市中へ移されました。そして、それが江戸の「時の鐘」の第1号となる「石町の鐘」でありました。
その後、江戸の町が拡張するに従って、最終的には9つの時の鐘が作られたそうです。
この鐘にまつわる話は多く残っておりますので、ご紹介します。
鐘の管理を任された鐘役・源七は、こよい小伝馬町の牢屋敷で、石町の鐘を合図に処刑される者がいると聞いた日には、若干時間を遅らせて鐘を撞(つ)いた、という話が残っていて、 「情けの鐘」とも言い伝えられています。
安政の大獄で捕らえられ、安政6年(1859)10月、この牢屋敷の東南角にあった刑場で処刑された橋本佐内や吉田松陰ら五十数名も最後に、石町の鐘の音を聞き、 今生の名残と覚悟したことでありましょう。
牢屋敷跡の十思公園東北の一角に、現在の石町の鐘と向き合って、「松陰先生終焉の地」と松陰自筆の辞世 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂」を刻した二つの石碑が建っています。

江戸の三大俳人

江戸の三大俳人である松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶は、それぞれ50年くらいの時代差がありますが、それぞれ日本橋に居を構え 活動をしていました。

松尾芭蕉は当初、現在の室町に住み、その後深川・芭蕉庵、そして奥の細道へ旅立ちました。
与謝蕪村は、石町の鐘のそばに居住した、芭蕉の孫弟子・早野宋阿こと「夜半亭巴人」に弟子入りし、20歳から師匠の巴人が亡くなる27歳ころまで、ここに住み俳句の修行をしていました。
夜半亭の由来は、盛唐の詩人・張継の「姑蘇(こそ)城外ノ寒山時、夜半ノ鐘声客船二到ル」にあります。
小林一茶も、久松小学校の近くに住み俳句の勉強をしたようです。
この三人が、日本橋の町で活動したというのも何かの縁なのでしょうか。伝馬町の牢屋敷で、石町の鐘を合図に処刑される者がいると聞いた日には、若干時間を遅らせて鐘を撞(つ)いた、 という話が残っていて、「情けの鐘」とも言い伝えられています。
>安政の大獄で捕らえられ、安政6年(1859)10月、この牢屋屋敷跡の十思公園東北の一角に、現在の石町の鐘と向き合って、「松陰先生終焉の地」と松陰自筆の辞世 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂」を刻した二つの石碑が建っています。

「石町時の鐘」のほとりに集うた夜半亭一門

前述の通り、夜半亭は文久二年(1737)俳諧師・早野巴人が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵(いおり)です。
この夜半亭には、 多くの門弟が出入りしていましたが、中でも「宰町」と号していた若き与謝蕪村は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。
寛保二年(1742)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、関東奥羽等を歴訪後、京都を永住の地と定めました。
そして、蕪村55歳の時一門の者に推され、夜半亭を継承し二世となりました。
安永三年、59歳の蕪村は師の三十三回忌の追善法要を営み、追善集「むかしを今」を編纂、その中に「師や昔、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎(やど)りして市中に閑をあまなひ、 霜夜(そうや)の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予とともに俳諧をかたり・・・・」と回想しています。

蕪村がこの地を詠んだ句として、「涼しさや 鐘を離るる かねの声」があります。
蕪村も、俳人の内弟子として又生活者として、日夜、鐘撞新道を行きかった事と思います。

本石町新道横にあった長崎屋

江戸時代、鎖国下の日本と西欧との交流はオランダを通してだけとなり、幕府はオランダに独占貿易を許すかわりの御礼を要求しました。それは長崎・出島のオランダ商館長が江戸に出向いて献上品を呈上することと、将軍への拝礼を行うことでした。これがいわゆるオランダ商館長(カピタン)の江戸参府と言われるものでした。
オランダ人一行の江戸での宿泊所に定められたのが、日本橋本石町三丁目(現在の室町4丁目4番地)にあった長崎屋でした。一行の滞在中には、様々な人々が押し掛け対談にのぞんだようです。その中の一人、杉田玄白著の「蘭学事始」に長崎屋の様子が書かれております。また、青木昆陽や大槻玄沢など、当時の知識人がこぞって集まった交流の場であったようです。また、江戸参府に随行した医師・フェイルケの描いた「長崎屋二階の図」という絵には、その様子が細かく描かれております。
その他、エレキテルで有名な平賀源内やシーボルトなども長崎屋を訪れた人物として有名です。
オランダ人、ケンペルの「江戸参府旅行日記」の1691年3月13日のところに、江戸長崎屋に到着する時の状況が書かれています。「区画の整った首都の町にある中央の通りを進み、とうとう最後の横町に入っていった。
その手前の左側にある木造の鐘楼のすぐ近くに、われわれの宿舎が目に入った」と述べています。それを注釈すると、「ケンペルたちが通町通りを進むと、間もなく左手に駿河町二丁目と三丁目の間の通りで、両側の角地が三井越後屋呉服店、その間からも富士山がよく見えた。次いで、雛人形で有名な十軒店を過ぎ、本石町通りを横切って間もなく、右側の最初の横町に、いよいよオランダ商館使節一行は入って行った。この横町が鐘撞堂新道であり、左側に木造の本石町の時の鐘の鐘楼が建っていた。新道の右側には、黒板塀に囲まれた長崎屋の諸建物が続き、その先にオランダ使節専用の門があり、奥に二階建てのオランダ使節用の宿舎が見えた。」
このように、石町新道にはオランダ使節をはじめ多くの知識人が出入りしていたようです。

長崎屋にゆかりの人物

長崎屋にゆかりの人物、左寄りシーボルト、平賀源内、杉田玄白、そして解体新書です。


長崎屋の隣にあった公事宿「小山屋」


そして、極め付けは赤穂浪士の忠臣蔵であります。
長崎屋の隣、「時の鐘」の近くに小山屋弥兵衛が営む「小山屋」という旅籠がありました。前にも出ました関東郡代への訴訟人が利用した公事宿と呼ばれた宿で、大変繁盛していたようです。
別館は食事別の月決めの長屋式で、宿賃も安く、大石内蔵助たちは別館を利用したようです。
元禄14年(1702年)11月3日、伏見を引き払った内蔵助は江戸に入り、小山屋で大石主税等と合流し、12月14日の討ち入り当日まで滞在しました。

江戸滞在中の浪士たちは、目立たぬように分散して居を構え、小山屋別館には、1.大石内蔵助、2.大石主税、3.小野寺十内、4.菅谷半之丞、5.近松勘六、6.三村次郎左衛門、 7.早水藤左衛門、8.潮田又之丞、9.大石瀬左衛門の9名が逗留しました。
時至り、赤穂浪士は元禄14年(1702)12月14日、夜半九ツ(午前0時)の時の鐘を合図に、日本橋、麹町、芝、両国、深川、本所等14か所のそれぞれの潜伏先から行動を起こして「人々心得之覚書」に従って、 「前日の夜半より物静かに定め置き候3箇所」に集合しました。大石ら一統も当然、石町の九ツの鐘で小山屋弥兵衛裏店を出発し、吉良邸近くの集合場所に集まったことと思われます。

かずさやから江戸通りを通り、両国橋を渡り回向院の裏の吉良屋敷までは、徒歩で大よそ30~40分でありますので、好位置にある隠れ家であったと云えます。
小山屋があったとされる、現在の天茂さんのお店も載せておきました。

以上が、上総屋並びに鐘撞新道に関係する話でありました。歴史上の実在人物だけでもこのような人たちが、行き交う通りでありましたから、 思いもよらぬ大物たちも大勢通ったことを想像すると夢が広がります。